武蔵国分寺建築は江戸時代より前(757〜765)だが、なぜ項目を下に持ってきたかは、武蔵国分寺建築の木材利用などの詳しい文章が残っていないのと、想像の域を越えない為だ。
この項目では実録ではなく、実録を含めた歴史ロマンとしての記載に留めたい。以下に記載する。
有史時代に入ると、水田耕作の肥料としても森が使われるようになった。落ち葉や草木の若芽・若葉を刈り取り、田の中に踏み込んで腐らせる「刈敷」がそれだ。風土記には、松脂、榧子(かやのみ)など様々な草木が薬用に使われていたことが記されており、人々の知恵による森活用の幅が広がって来たことがわかる。
その一方で、建築用の木材需要増加や水田開拓のために森林乱伐が進んだ。日本書紀によると、天武天皇が、飛鳥川上流の畿内の草木採取と畿内山野の伐木を禁止する勅を発令(676年)。これは、森林伐採禁止令の最古の記録とされている。
工業的な需要としては、瀬戸内海地方で「製塩」燃料として森の木が大量に使われていた。天日で濃縮した海水を煮詰めて塩をとるために必要な蒔。その生産を目的とする山林は「塩山」「塩木山」と呼ばれ、奈良時代に東大寺が560町歩(約555ha)もの広大な塩山を所有していたという記録がある。同様に、中国山地では「製鉄」のための燃料としても大々的な伐採が行われていたよだ。
平城京、平安京の建設、寺社仏閣の建築ブームなども相まって、800年代までには畿内の森林の相当部分が失われ、600年〜850年は日本の森林が荒廃した第一期とも言われている。
武蔵国分寺建築は周囲の地域に多大な影響を及ぼしたに違いない。大きな礎石だけでも500を超えると言われているので周囲に与えた影響については計り知れない。
もちろん建築には木材が使用されるが、いったい武蔵国分寺建設という国家プロジェクトで使われた木材はどこからやって来たのか。
周辺、あるいは遠方より取り寄せたと言う事も考えられるが、やはり源流から多摩川を使い輸送されたのではないかとも考えられる。陸送したにせよなるべく近い場所から運ぶのが道理であろう。
当時あったとされている七重塔は高さ60メートルはある大きな塔であった。東寺〔教王護国時〕(京都府)にある五重塔54.8mなので七重塔としては小さめであったかもしれないが、法隆寺の五重塔とおなじように心柱が使われているとすれば、地域で言う御神木のような大木だったであろうと推測できる。他に門や巨大な建物を建築するにはやはり巨大な木が必要だ。
あきる野や檜原などの奥深い山には御神木級の大きな木が何本もあったと言われている。このような木は巨大建造物に使われた可能性もあり、現在では残っていない。
ここで少し多摩産材の事に触れたい。多摩産材を使用した家は地域の風土に合い長持ちする家となる。昔はこのように地の物を使えば長持ちするというのは職人の間では当たり前の事だったのかもしれない。外材などが入り乱れる現在では定説ではないが、前に名前を出した法隆寺の五重塔に使われている木材も地元の物をつかっているのではないかと思われる。
何故法隆寺五重塔は木造建築なのに1300年ももつのか?
これは一時話題になったと思いますが1300年と言うのは驚異的な数字である。なぜなら修復工事にあたった人が言うには「法隆寺の心柱は樹齢2千年以上、直径2.5mのヒノキの巨木を4つ割りにして使っている」とあるが樹齢と建築後の年数を合わせると、使われている木は生まれてから3千300年、切られてからは1300年も経っているのである。
この事からも、使われている木材は地域で育った木材を使っているだろうと推測できるのではないだろうか。この辺りは推測でしかないが他の地域から持ってきた木材であればこんなにも長い間もつものなのか疑問でもあるが、もしくは古代の職人の計り知れない技術のたまものなのか。
いろいろ考えられるが、木材だけで見ても歴史ロマンはつきない。 |